今し方、子らが駆けていった広場を、獣のかたちをした脚が踏みつける。
 逃げろ、と叫ぶ男の声は近い。『振り返る』と獣頭のばけものがいた。水平に近い横凪ぎの一閃。あれは頸を、動脈を狙う構えだと経験が告げる。
 刹那、熱いはずの飛沫が噴出した。ごろん、視界が逆転し――――



「あんた、腕が立つんだろう?」
 我に返る。目の前には人好きのする笑みをひいた中年の男が立っていた。
 その鳶色の瞳の奥では未だ獣が蠢く。逃げろと叫んだのはこの声に酷似している、ならば『あれ』はこの男の顛末か。まだ、頭と胴体は繋がっている。
 白昼夢と呼ぶには鮮明なビジョン。それを、そのものの名を、男――宵駆・ヤハ(c18808)は識っていた。厭と言うほどに。
「……何がだ?」
「なんだい、聞いてなかったのかい」
 西に、バルバが出たそうだよ。





 うだるような灼熱は、険しい山脈のあわいにも平等に、そして容赦なく訪れる。
 肌に感じる熱量は、最早ドロースピカが齎すものの比ではない。自ずと涼を、木陰を求めて足が動く。

 永遠の森を出発してからいかほどか、最寄りの都市国家を離れたのさえ随分と前のことだった。
 人類の領域から足を外せば、道程は安全とは程遠い。――……これより先は険しい、あの先には村があるから山を越えるのなら立ち寄った方がいい。気紛れに助けた行商人は言った。
 しかしいざ立ち寄ってみれば、村と呼ぶのもおこがましい。ほんの数十人のひとの集まり、寄り合いだ。
 ただ、世俗から切り取られた人里にしては、余所者と一線をひくあの特有の感覚を、彼らは持ち合わせていなかった。それは幾らか楽だと感じた。
 日照りがじわじわと、伸びた襟足ごとうなじに照り付ける。途端に汗が滲み、不快感と共にえもいえぬ熱がべっとりとはりつく。あつい。そういえば長いこと、髪を切っていない。

 ふとなにごとかを叫びながら、子がふたり脇をすり抜けた。このくそ暑い中、きゃっきゃうふふと何が楽しいというのか。あれはよくわからないいきものだ、昔も今も見解は変わらない。

 所詮、相手はバルバだ、力を叩きつけるだけの戦い方。けれども的確に急所を狙うやり方を奴らは知っている。
 単なる力比べではとるに足らない、しかし如何せん、数が多すぎた。計数はニ十六を過ぎた頃に気が殺がれ投げ出してしまったが。いくらエンドブレイカーと言えど、独りで潜り抜けるのは無謀である。
 数の多さ、これが唯一の問題だった。応援は呼べまい。この村は世界の瞳の扉はおろか、どの都市国家にも程遠い。着工して久しいと聞く都市国家間街道が完成していれば、幾らか話は違っただろう。だがそれも詮のない話だ。どのみち終焉の日が行儀よろしく待つ筈もない。

 そこまでを思考してヤハは目蓋を伏せた。
 要するに、選ばなければならない。見捨てるか、否かを。


「とう!」
 思考はより深くへと潜ろうとして、違和感に急浮上する。脇腹に何かが当たった感触が残る。目蓋を開けば、走り回っていた子供の片割れがこの上なく得意げな面を浮かべていた。よく見れば手に棒きれを掴んでいる。なるほど、先程当たったのはこれか。
「……」無言のまま垂直に拳を落とす。眼下の旋風を目がけて、上から下へ。
 ごん。「いてえーーー!」
 痛いはずがないだろう、力など入れていない。煙草の火を点け、煙を吐き捨てるついでに呟いたが、子、改め珍妙ないきものに届いたか否か。低い背を曲げてさらに小さくなっていた。すこし気が晴れた。
 遠くから女の声がした、目の前の子がいらえを返す。ごくごく平凡な、そしてありふれた光景。
 けれど一瞬、何か信じられないものを見るような眼をして、ヤハは唇をひらく。「……それは、お前の名か」低く、唸るような声だった。
 鳶色の瞳が三日月のかたちに細くなる。にっと白い歯を見せていきものがわらう。
 そうだよ、おじさん。ぼくは――――

 片皿を高く掲げたままの天秤が、がらがら音を立てて崩れていく。
 左手をきつく握りこむ。爪が肉刺だらけの掌の、やわらかいところに食い込んで。ヤハは再び目蓋をとじた。






 それから片手ほどの日が過ぎた。
 なまぬるい風が頬を撫ぜ、そのまま後方へと走り去る。

 頃合いか。
 短い睫毛が持ち上がり、紫の瞳孔がたちまち鷹のそれに変わる。嘗めるように視線で地平を辿れば、蠢くものが視てとれた。
 いつの間にか日は傾き、山際をあかく染めていく。噴き上げたばかりの、血のような色で塗りつぶす。
 黒々とした点が、ひとつふたつみっつ、その数を増やしていく。

 ヤハは人知れず口端を擡げた。獣のような笑み。
 終焉を砕くことも命を救うことも、もうとうに頭から抜け落ちているかのような。
 緊迫感、緊張感。このままでは息が吸えなくなってしまうのではないか、そう錯覚さえする重く濃密な空気。
 この感覚はひどく久しい。そうして気がついた、己がどれだけ、この瞬間を待ち侘びていた事か。
 ひとが元来持つ恐怖や焦りを足元へ追いやるほどに膨れ上がる、期待感。高揚。
 もはや全身が、この上ない悦びに満たされていた。

 さてどれだけの数を屠り、どれだけの刻を稼げばよいか。
 そんなものは決まっている。一体でも多く、一刻でも長く、だ。
 そろそろ物見やぐらの男が気がつく頃か、そう頭の隅で独り言ちる。

 乱雑に脱ぎ捨てた外套が宙を舞い、やがて地に落ちる。
 弾かれたように靴裏が地を蹴った。
 けたたましい獣の咆哮が鼓膜をふるわせる。遠かったそれは、徐々に、徐々に近く。






 背後からは夜が迫っていた。黒々とした、星のない夜が。











宵に駆ける

全ての縁に、感謝を。
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